松山原造関連

 松山原造は明治8年(1875)、小県郡大門村(現 長和町大門)に生まれた。代々庄屋を務める家筋で祖父篤志朗は漢学に優れ、近隣の豪農子弟に出張教授をしていた。原造はその祖父の厳格な教育を受けた。10歳の時、祖父の遺言によって一番弟子であった小県郡和村(現 東御市和)の田中新太郎に預けられる。

 田中新太郎は後に和村の村長となり、また東筑摩郡山形村に堰を通し、同郡西条村の炭鉱を経営した事業家であった。原造を名家にふさわしい人間に育てるため漢学を教え、家業であった農業、酒造、優良馬の飼養を指導し養育した。

 馬の扱いに慣れていた原造は、福岡農法の馬耕に出会いたちまち馬耕を習得している。小県郡で改良農法を指導するかたわら、折々に和村の田中新太郎家へ戻り野山で馬を馳せていたことを原造は日記に記している。

 松山記念館は松山原造が幼いころ学んだ漢籍の数々「康煕字典」「四書五経」をはじめ、「原造の日記」や発明好きだった原造が考案した日常道具なども展示している。

 

※クリックで展示品画像を拡大できます。

ページ上部へ戻る