すきとは

すき(犂)とは牛や馬の牽引力を利用して土壌を耕起反転し、作物によい田畑をつくる機具。

横柄(よこえ)・回転柄(かいてんえ)・犂身(りしん)
犂箭(りせん)・犂箭ボルト(りせんぼると)
犂轅(りえん)・犂釣(すきつり)
犂へら(すきへら)・犂床(りしょう)
犂先(すきさき)・耕槃(こうはん)

 

起源

 朝鮮系渡来人によって6世紀ごろに朝鮮半島を起源とする無床犂が伝わり、中国唐代の唐犂(カラスキ)を起源とする長床犂は7世紀に遣唐使などにより伝来し、天智政権のもとに地方にひろめられたとされる。香川県下川津遺跡や兵庫県梶原遺跡では、7世紀の遺構から長床犂が出土している。

文献からみる犂耕の普及

 古代における犂の普及状況については、記録の上では、927年(延長5)に撰進された『延喜式(えんぎしき)』に宮中の膳部をつかさどる内膳司の農場が京北・奈良・山科にあり、牛を用いて馬鍬や把犂(カラスキ)をひかせていることが記されている。農場の備品として馬鍬2具、犂はヘラ2枚とサキ4枚が計上されている。また平安時代中期に成立した長編物語『宇津保物語』には、紀伊国(和歌山県と三重県の一部)の長者の家では田8町歩(約8ヘクタール)ほどを作り、「牛どもに犂かけつつ、男ども緒持ちて鋤く」と犂による耕作のようすが描写がされ、犂耕の普及を知ることができる。


すきの分類について

– 形態による分類 –

 無床犂(抱持立犂)

 犂床のない犂をいう。湾曲した犂身の先端に犂先を装着している。犂轅には直棒が使われ、犂柱も直材を用いてホゾ組で犂身とを固定する。犂身には、水平カジ棒あるいは右側にカジ棒を備える。抱持立犂(カカエモッタテスキ)が代表的なものである

長床犂

 長い犂床を持ち、犂轅はへの字形に折れ曲がった曲轅で、犂轅の後端は犂身に差し込んでいる。大きめのホゾ穴の遊びに楔を打ち楔を上下に打ち変えて深耕を調節する。犂柱は、犂床と犂轅を固定し構造を堅牢にしている。4つの部材が直角にホゾ組されることによって堅固な接合になるため、曲線をもつ自然木が使われる。

短床犂(中床犂)

 長床犂と無床犂の折衷型として出現したもの。九州地方の一部では、押持立犂(オシモッタテスキ)・肥後犂といった短い犂床を備えた犂が使われていたが、明治33年に松山原造により双用式短床犂が考案されたことによって、これが画期となって近代短床犂が飛躍的に発展し、畜力犂の主流となった。

土魂の反転による分類

単用犂・双用犂(互用犂・両用犂)

単用犂
 犂先が固定されているため反転方向が一方になっている犂のこと。
単用犂は主に畝立耕に使用され、回り耕による平面耕にも使われた。畝立耕は往耕と復耕で土の反転方向が逆になる単用犂を使って畝を作り、乾土効果を高めた。主に二毛作を行う地域や西日本で普及していた。

双用犂
 鐴の向きを一操作で左右どちらにも反転することができる犂のこと。
これにより往耕、復耕いずれも同一方向に起こすことができる。畑地や寒冷地、二毛作を行わない水田や傾斜地また小さな圃場にも向いている。

 

来歴による分類

洋犂(プラウ)・和犂

 明治時代に欧米から移入したプラウを「洋犂(ようすき)」、それに対して中国や朝鮮半島から伝来し日本で古くから使用されてきた犂を「和犂(わすき)」と称する。


 日本でのプラウは、幕末にプロイセンの貿易商が函館近くの開墾地に持ち込み使用したのがはじまりといわれている。プラウでの耕耘は先端のシェア(刃板)で土を切断し、切り出された土をモールドボード(発土板)に沿ってすり上げながらよじって、下層の土が地表に来るように反転させるもの。重量があり牽引抵抗も大きいので2頭曳きや4頭曳きの複数馬によって使用される。畜力用プラウは北海道から普及がはじまった。

 

 

長野県における犂耕のはじまりと松山原造

 長野県に牛馬耕の技術が入ってきたのは、明治時代になってからである。それまで畜力利用は、運搬と代掻きだけであった。

 明治初期にもっとも農法が進んでいたのは北九州地方であった。馬耕・籾の塩水選種・短冊苗代・苗の正条植・雁爪打ちがすでに発達していて、福岡の林遠里は、明治16年に「勧農社」を組織して延べ464名の農業教師を全国に派遣している。

 政府も明治20年代にこのような先進地農法を積極的に奨励した。この「勧農社」社員が馬耕に使う犂として教えたのが抱持立犂(カカエモッタテスキ)である。抱持立犂を使うことにより均一に深耕がなされ、これだけで米の収穫量が増したともいわれている。

 明治25年、長野県勧業課は「勧農社」社員原田勝三郎を米作改良試験教手として雇い、模範田をつくり指導にあたらせた。また、各郡には試作田を選定し、原田勝三郎はそれを巡回しつつ農民に実習指導した。長野県における抱持立犂の普及の始まりは、原田勝三郎の指導によるものである。

 明治27年、長野県小県郡では「勧農社」から古川列一を招聘し福岡農法を郡下の農家にひろめることとなった。小県郡の試作田として松山原造の寄寓していた小県郡和村(現 東御市)田中新太郎の田地220坪があてられたことから原造は最新の農業技術を率先して学んだ。

 明治29年には古川列一農事教手とともに郡下を回り、明治30年4月には農事教手の助手、明治31年4月には農事助教手に昇格し、新農法を郡下の農家に指導して歩いたのである。

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